旧薗村に属し組印は新の字をうかせた「盃」で通称を新町といい、獅子舞と奴踊りを奉納する。地下(じげ)内に小竹八幡宮があり、宮本としての権限で式順は常に一番を勤める。
 中組という名称は比較的新しいと思われ、組の古い文書や道具には新町の名称が使われている、新町の町の発祥は小竹八幡宮遷宮以前の薗御殿に関係している。嘉永八年(1631)初代紀州徳川藩主、頼宣が薗村の前之芝に別邸の薗御殿を作る際、御殿より御坊町までを新町と称し、ここに町を作り御殿の世話をするように命じたのが新町の始まりである。
 江戸時代には廻船業が栄え、また、近世には日の出紡績の所在地で、古くより人口も多く比較的裕福な土地柄で祭りにも当初より参加していたと思われ、四つ太鼓も文政年間(1820年頃)にはすでに登場していたと思われる古文書が残されている。
中組の五反幟は面白く、他の幟と違い「乳(ちん)」(幟の竿を通す輪)が左右逆に付けられている、これは昔の喧嘩の制裁と言われているが定かではない。

 な か     ぐみ      し ん  ま ち  .